生物物理 2012年2月 Vol 2. No.1 [J-STAGE]

生物記号論 - 主体性の生物学

川出由己 [著]
京都大学学術出版会 2006年、A5版、351ページ、3,570円(税込)

 生物という対象を物理学の方法で研究なさっている会員の皆さんは、生物とは「分子部品が組み合わされた複雑精妙なマシン」だとお考えでしょう。そう考えることで分子生物学は栄華を極めたわけですから、そこに文句をいうつもりはありません。しかし、こうした物質還元主義への批判も最近よく聞きます。反還元論の立場は「複雑系科学」あるいは「システム生物学」と呼ばれることが多いようです。本書も反還元論なのですが、複雑系ではなく「記号論」の視点から生物を見てみようという提案です。タイトルはまるでポストモダンな似非科学書ですが、そうではありません。著者は、京大ウィルス研の名誉教授であり、定年退職後十年以上かけて練った自身の生物観を、真摯に丁寧に説いた書物のようです。

 まず「記号論」的なものの見方について簡単な例を示しましょう。日本語では、■を「クロ」、□を「シロ」と呼ぶことになっています。しかし、なぜこのように呼ぶのか、その理由(語源)はよくわからない。入れ替えて、■を「シロ」、□を「クロ」と呼んでも別に問題はないような気もします。こうした単語の呼び名と意味の関係について、ソシュールは、様々な言語の単語を分解して調べたあげく、名称(記号表現)と意味(記号内容)の結びつきは根源的に「恣意的」(必然性はない)と断言しました。これは人間の言語のお話ですが、同じような例は細胞内の分子の世界にもたくさんあります。例えば、コドン表では「AAA」はリジンを意味しますが、AAAというヌクレオチドとリジンというアミノ酸には化学的な関連は一切ありません。cAMPは細菌において飢餓のシグナルですが、cAMP分子単体の物性をいくら調べても「飢餓」という意味は読み取れません。これらの「意味」は、レセプターから始まる生体高分子群の組み合わせで決まるものです。それらがどのようにつながるかは進化上高い自由度があり、逆に、分子と機能の関係を「恣意的」に選べるからこそ、生物は進化することができたのだとも考えられます。同様のことをモノーは「偶然と必然」のなかで、「無根拠性」という言葉で説明しています。

 本書の前半は、分子生物学によって明らかになった生物内部の諸過程(細胞内の通信系、細胞間の通信系、生体防御系、遺伝系など)が、「記号作用」としてどう解釈できるかが丁寧に説明されています。記号の様々な特徴(恣意性、差異性、多義性、冗長性、二重分節など)が分子生物学の世界にも見られるのです。後半は、これらの事実をもとにした生物観が語られます。筆者は、細胞がある種の記号活動をしていることを認めるなら、細胞にも「意図」の原初形や「心」の原初形があり、記号作用を行う「主体」こそが生物の本質だと主張します。生物記号論は、科学というより思想であって、筆者も認めるように、物理生物学に新しい研究法をもたらすことはないかもしれません。しかし、記号性を意識することによって、逆に、物理生物学のテリトリーが明らかになります。生体分子群の「物性」(記号表現)は物理生物学で研究できますが、その分子群の「機能」(記号内容)は、解釈者たる主体(例えば細胞)の「意図」を読み取らない限り理解できないものです。しかし、主体の意図が何であるかは、物理で答えられる問題ではなく、擬人的に推しはかるしかないものなのです。

(阪大蛋白研・蛋白質情報科学 川端 猛)