動的核偏極(DNP)で固体NMRの感度向上

固体NMR法は必ずしもカチカチの「固体」を見るためのNMR法という意味ではなく、溶液に溶けて自由なブラウン運動ができない分子系をみる方法というのがもっと正しい。生体内で働くタンパク質にはこの「溶けないもの」に重要なものが多い。たとえば細胞を取り囲む脂っこい脂質二重膜に埋まって膜蛋白質だ。外界からのホルモンや光、信号を受け取り、細胞内部に適切な命令を下す生命維持の要だ。他の構造解析法、X線結晶回折法や溶液NMR法ではなかなか難しいのだが、こういうものの構造解析を得意とするのが固体NMRである。

当然固体NMRが担う期待はたいへん大きいが、最大の弱点はその低感度にある。つまり原子核からくる重要なNMR信号は微弱なため、検出器の熱ノイズなどに埋もれて見えにくいことが多々あるということである。より一般にNMRはラジオ波分光と言われ、原理的に低感度なのだが、固体試料ではブラウン運動が無いせいで、強い核スピン間の相互作用が残りやすく、NMR信号が広く太くなる傾向があるから、なお悪い。また同じ理由で、NMR核では感度が最も高いプロトン(水素核)の観測が難しく、多くの場合より低感度のカーボン信号観測に頼らざるをえない。ましてや、分子超複合体や細胞まるごと測定など研究対象が大きくなれば、一定容積の試料管に詰まる分子数はどんどん減るわけで、固体NMRの生体高分子研究はまさに低感度、低感度、低感度の三重苦なのである。

そこで動的核分極(DNP)法が登場する。DNP法は不対電子スピンの高いボルツマン分極(プロトンの約660倍)を、強い高周波数マイクロ波の照射で励起することで核スピンに移すことで、NMR信号を増強、感度を向上する発展途上の新手法である。高めた核スピン分極は放っておくと縱緩和時間の間に勝手にまた元の小さな熱平衡分極に戻っていくので「動的な」核分極と言われる。他方、試料を極低温に保つと核スピンの「熱平衡」ボルツマン分極が温度に反比例して向上するから、例えば30Kまで冷却すると室温(300K)の10倍の核分極が定常的に得られる事になり、これは「静的な」核分極と言われる。つまり、「極低温で」「DNP」をすれば、両者が加味され感度利得は普通の室温NMRの660x10=6600倍となる。これはなんだかとても有望そうである!

電子スピン共鳴をマイクロ波で強く摂動を与え、電子スピン分極を核スピンに移す。我々が開発中の16.4T条件では460 GHzの特別な光(サブミリ波)が必要になる。

感度が上がるとこれまで不可能だった巨大分子系の構造解析や超微量試料の検出が可能になる。また低感度のせいで手が出なかった3次元以上の高次元スペクトル測定も可能になり、固体NMR法のスペクトル分解能は飛躍的に向上するだろう。1964年、R. ErnstがPulse-Fourier Transform NMRを導入してNMRの感度を10倍ほど向上したことが(1991年ノーベル化学賞)、その後NMRによる広範な化学、構造生物学の発展を切り拓いた事を思い返すと、DNP-NMRが与えるだろう正の効果は計り知れない。

我々の研究室では2005年より、高い外部磁場条件におけるDNP法の開拓に焦点を絞って装置開発に励んできた。これには電子スピン共鳴を励起するマイクロ波光源とその制御ソフト、光の伝送システム、DNP用のNMRプローブ、試料の冷却・回転装置など多くが含まれる。NMRスペクトルの分解能を上げ、たくさんのタンパク質信号を分離するには高磁場条件が必要なのだが、DNPの効率(電子から核への分極移動効率)は原理的に磁場強度とともに急激に悪化する。当時この問題で世界中の同業者の間で頭痛の種になっていた。ここに2010年、我々は独自のDNP分光器システムを開発し、10T以上の磁場条件(14.1 T)では世界初となるDNP現象の観測に成功した。2014年には16.4Tでも成功させた。これに加えて2015年にはこれも史上初、完全閉回路構造で高価なヘリウムガスをまったく消費せずに極低温を維持できるDNP-NMRプローブを開発、高磁場でも高い感度利得を得るのみならず、装置の運転コストの劇的な低減を実現、極低温DNP法の実用性を飛躍的に向上させた。

460 GHz-700 MHz DNP MAS NMR実験室の様子。2台の周波数可変ジャイロトロン(写真左奥)からのサブミリ波を合成し導波管(写真上に平行に走る)を通してNMR磁石(写真右奥)にまで伝送する。閉回路ヘリウム試料回転装置(真ん中下)は極低温(30 K)の高速試料回転(10 kHz)を、液体ヘリウムを全く使用せずに実現できる。

極低温ヘリウムを用いる試料温度30Kにおける測定で得られた総合感度利得は2018年現在、従来の固体NMRの1000倍以上に達しこれは今でも(2020年現在)世界最高記録である。この感度は従来の固体NMR装置では2700年かかる信号積算が1日で終わる計算である。微量生体物質の検出や同位体標識が難しい機能性材料の有機ナノ被膜の解析など、学界のみならず産業界でも多大な活躍が期待される。

DNPによる核分極の向上、低温による静的核分極の向上、高磁場化による利得を加味した総合感度(縦軸)の歴史。紫色の星印で示したデータが我々の成果。

ここまで来ても解決すべき問題はまだいくつも残されている。膜タンパク質、アミロイド線維など、広範な形態の試料を安定に分極させる一般法の確立、さらには働くタンパク質を細胞内で直接、高感度に構造解析する、細胞内DNP法の開拓などである。近い将来1000倍明るい固体NMR法で、蛋白質の、そして生命の作動原理を照らし出すべく、我々は更なる技術革新に向けて日々努力している。